自分にレッテルを貼ってる。それ、楽になってる...?

0.まずは簡単な挨拶、俺様がhelishida。

 こんにちは。KMC47期、京大工学部工業化学科1回のヘルファイアいしだです。今年は「みんなでゲームを作る」という企画に、全くの初心者枠として参加し、そこから特に成長せず年の瀬近くまで来ています。来年もKMCにのんびり関われたらいいなという気持ちです。

 

 

 さて、2023年のアドベントカレンダー(KMC Advent Calendar 2023 - Adventar)の12月7日分を担当させていただきます。昨日はWalnutsさんのWalnuts.devを支える技術(Walnuts.dev を支える技術 (物理環境/ネットワーク編) - Walnuts (hatenablog.com))でした!ハッカーみたいでかっこいいですよね!(小並)明日のmarimoさんの記事も個人的に楽しみにしているところです!

技術的にすごくすごそうな記事が並ぶこのカレンダーですが、私は技術に関係なく、普段生活していて感じたことをそのまま言葉にした気楽な記事でこの機会を乗り切らせてもらおうかなと思います。

 

 

タイトルは

自分にレッテルを貼ってる。それ、楽になってる...?

というもので、MBTI診断をはじめとした「自分に貼るレッテル」に対するちょっとした疑念について書いたのでぜひ読んでください~。

 

 

 

1.MBTI診断(自称)について

1.1.実際にやってみた。

最近、MBTI診断(無料性格診断テスト | 16Personalities)とかいう性格診断が流行っているそうな話を聞いた。

一般的に対面で行われるMBTI診断をまねて作られた(自称)MBTI診断を、ネット上で行うことができるらしいのだった。

いくつかの質問に答えていくと、性格を16タイプのうちのいずれかに当てはめてその特徴を言語化してくれるらしい。

なんか面白そうだなと思って、自分もやってみると、建築家とかいうレアキャラを引けた。
自分は周りとちょっと違う特殊な人間なのかなって、ちょっと嬉しくなった笑

分析結果に基づく性格の詳細説明も、ふむふむと思って読んだし、「たしかにそう言われたらそうかも…」と腑に落ちた。

なによりなにより、自分の性格がある程度簡潔に言語化されたことになぜか喜びを覚えた。

1.2.でも、ちょっと待てよ…。

でも、ちょっと考えたらこの診断の信憑性が低いことは、わかると思う。

だって、人の性格って白、黒、とはっきり分類できるものじゃないはず。成長する過程で、私たちは様々な人と交流をして、刺激を受けていく。
ある程度の濃淡は残しつつも、ああでもないこうでもないと、白黒つかないマーブル模様の頭の中をかき混ぜながら、私たちは大人になってきたはずだ。

そんな複雑な人の性格を、たった16タイプに分類するなんて馬鹿な話だ。

上にあげた、ネットで行える自称MBTI診断のような「事前に用意された型に当てはめていく性格分析」を「類型論」といい、これらにおいては性格の中間値が考慮されないから、正確性については保証されていないようです。

2.発達障害HSPについて

かなりセンシティブな話題になってしまうが、発達障害HSPの類についても、同じことが言えるのではないかと思う。

ADHDであるかどうかの基準の一例は、「発達水準からみて不相応に注意を持続させることが困難であったり、順序立てて行動することが苦手であったり、落ち着きがない、待てない、行動の抑制が困難であるなどといった特徴が持続的に認められ、そのために日常生活に困難が起こっている状態」(国立精神・神経医療研究センター)とされている。

でも、日常生活に困難が起こっているというのは、頻度や質など人によってかなり異なってくる基準であり、本来そのような特質は、「ADHDかそうでないか」と、二値化できるものではないのだろうと推察する。

3.なぜ性格診断に飛びつくのか

3.1.「私」のことを分かってほしいから

私はここで、性格診断に飛びついて自分にレッテルを貼る人のことを嘲笑したいわけではない。

むしろ私も、自分の性格を型に当てはめて楽になる気持ちは本当にわかる。診断は私のことをわかってくれるんだ、という気持ちは普通に生活しているとなかなか味わいがたいものだった。

この「自分の性格を型に当てはめて楽になる気持ち」は、「周りの人に自分のことをもっとわかってもらいたい」という、
誰もが内に秘めた思いから来るのかもしれない。

『「自分は寂しがり屋だから気軽に話しかけてほしい。」とか、
「自分はこう見えて傷つきやすいから言葉遣いに気を遣ってほしい」とか、
他の人にちゃんとわかってもらえるなら、どんなに楽だっただろうか。』

そう感じている人は一見すると少ないようだが、実はそのような人であふれかえっている。
というか、そのような人しかこの世には存在しないのだ。なぜなら、誰しもが性格の唯一性を持っており、二人として完全な同一個体は存在しえないからだ。

だからみんな、性格診断にとびついて、他人に理解してもらうための「はず」のレッテルを自分に貼り続ける。はずの。

3.2そして、そのレッテルは陳腐となる。

そして、そのレッテルはほとんどの人に理解されないままなのだ。

それもそのはず、だ。

あなたの性格を理解していない他人があなたと出会ったとする。

まずその人は、あなたが自分で自分にはったレッテルを読むだろう。

「ふむふむ…寂しがり屋、と。」
「この人はHSPなのか」

簡潔にあなたの性格を分類したそのレッテルは、他人からすれば量産型なのだ。世の中の数千万人の人が自分に貼った性格プロトタイプの1つでしかありえない。

言葉は、情報を伝えていくうちにその一部を零して、劣化してしまうのだ。

あなたの複雑で唯一無二である性格は、理解されないまま終わってしまうのかもしれない。これでは、もともとの目的は、達成されないままだ。

4.じゃあどうすればええねん

結局、私たちは他人に簡単に性格を理解してもらうことには、困難を極めそうだ。実際のところ、性格診断が私たちを妙に言い表していたんじゃなくて、私たちが性格診断の文面に、勝手に自己投影していただけのようだ。

じゃあどうする?ここで、一番言いたかったことを言う。レッテルなんか貼らなくたって、私たちの性格なんて常に体から漏れ出ている。私たちは日々の会話や仕草などで、知らず知らずのうちに他人に「自分」を教えているし、逆をいえば、そうやって他人を理解しようともしている。

「自分の性格」をそれとなく態度で伝えていくことは、一見すると苦しい道のように感じるかもしれない。だけど、そうやって先人たちも生きて、社会を形成してきたはずだった。

性格診断や発達障害の称号になんか頼らなくたって、「日々普通に生活すること」が、自分の性格を理解してもらうための最も確実な道だ。

「便利な道具」は、時に私たちの足元をすくいかねない。